さあ、立って、出ておいで  雅歌2章8-17節

ソロモン王はシュラムの女性を愛しました。ケダルの天幕、遊牧民のテントのように日に焼けて黒いけれども、王が美しいというので、この女性は自分のイメージを回復しました。奥の間で個人的に主と交わり、パーテイにも一緒に行きます。王様の覆いの中で守られ、ブドウの木である主御自身とリンゴ、即ち御言葉を慕い求めて、満たされています。

8節:愛する方の声とは、御言葉のこと。御言葉が来るとき、愛と命と喜びにあふれて、跳ねる。問題の山を越えて、信仰の丘に立ってダンスする。主にとって、どんな山も問題にはならない。だから御言葉が来ると、問題はあるが、問題にならない。

9節:カモシカやシカは山にいて、用心深く、敏感な動物です。彼は愛と忍耐をもって、鋭い認識力を働かせて、私たちを見守っています。私たちには壁があって、プライドがあって、明け渡すことができません。イエスキリストは神であり、救い主であり、歴史の主人公です。でも、何かにしがみついて、心の中心を明け渡すことをしません。

10-13節:主は語りかけます。「さあ、立って、出ておいで。」 冬は過ぎ去り、大雨も過ぎて行った。備えの時は終わった。古い自分を新しく変革する時だよ。成熟したいなら、新しい季節の始まりに、さあ、立って、出ておいで。もう、自分で何とか帳尻を合わさなくていい。自分で自分を守ろうとしなくていい。神が、主が覆いとなって下さったよ。花、歌、山鳩…香りと喜びと愛と躍動感があふれています。復活の主の命です。イチジクの実は空腹を満たし、力と命を供給するし、医薬品として湿布の役目をします。ぶどうの木も花が咲いたので実を待っています。

14節:岩とは、イエスキリストのこと(1コリ10:4) キリストはあなたと私のために、打たれ、傷つけられ、殴られ、殺された岩です。それは、キリスト、即ち命の水を飲むため。キリストの全身は裂かれ、傷つきました。その打ち傷によって、流された血潮によって、私たちは癒されました。がけの隠れ場とは、全能者の陰(詩篇91:1)のこと。主の十字架の陰に、全能なる神の陰に宿る者の幸い。しかし主は招く。さあ、立って、出ておいで。主は、命の声、命に満たされた表情を見たいと願われる。岩の裂け目から出た水を飲んでいますか? 岩の裂け目から出た血潮をもっていますか? 血潮の中で生きていますか? 
もし、主の十字架の陰で生きているなら、つぶやきや不満ではなく、喜んで神の栄光のために捧げ、謙り仕えるでしょう。だから、イエスの打ち傷とそこから流れる血潮を見て下さい。そして十分に、心いくまで飲んで下さい。イエスの血潮には圧倒的な力があるからです。パウロは何と書いたか? 2コリ4:8-11

15節:狐はずる賢く人をだます。毎日毎日、毎週毎週、毎月毎月、、、どうして祈ったり、主に仕えたり、礼拝する時間がないのだろうと不思議に思う。子狐がぶどう畑を荒らしているのです。あちこちで、少しずつ、だまされて、時間を浪費し、主との個人的な時間を奪われているのです。

16節:私のもの→主のもの、6:3は主のもの→私のもの…これがあるべき姿、成熟した姿。信頼して主にゆだねると、主は清めて、祝福して用いて下さいます。5つのパンと二匹の魚が5千人を養ったように。

17節:花嫁はまだ未成熟で自分の思いも完全には委ねていませんが、願いは、いつも主の下にいたい。まだプライドを砕いてはいませんが、良い態度です。

1.御言葉があなたにきますように2.主のあなたへの愛と忍耐が見えますように3.騙されていないか? 十字架を妨げるものは何か? 祈り・奉仕・礼拝が心いくまで捧げられているか? 4.すべては主からのものです。用いて下さい。

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Nさん、金曜メッセージから

主日礼拝のメッセージで、牧師が雅歌書の御言葉を語っておられます。
私は幼い時、雅歌書は赤ちゃんだけが読む御言葉だとおもいました。
なぜなら、雅歌という漢字を、ハングルで読むとアガです。
ハングルでアガは赤ちゃんの意味があります。
ですから、赤ちゃんだけが読む御言葉だと思いました。赤ちゃんが字を読むわけがないですけどね。
今再び考えると、赤ちゃんのような純粋な心で御言葉をいただくと、神様の大きな恵みを受けられると思います。
牧師のメッセージを聞きながら、やっぱり神様は愛だと思いました
私は神様の愛でここまで来たと思っています。
本当にどのようにして、ここまで来て、今この場でこのように神様の恵みを分かち合っているのか、、、全ては、神様の愛がありましたからと告白するしかありません。
今も神様の愛がなければ聞いていらっしゃる皆さんも聞く必要がないし、私も話す理由がありません。
でも、ここに神様の愛があるので、その愛で集まりました。
本当に神様の愛はアメイジングレース、驚くばかりの愛です。
私がもう話さなくても、皆さん一人一人が、個人的に体験した神様の愛があるので、神様の愛を私よりもっとよく知っていらっしゃると思います。
神様の愛を受けてここまで来たので私も神様に愛の告白を捧げるために頑張っていますが、もう一度心からの愛の告白を捧げたいと思います。

真実な愛の告白を捧げるためには、まず真実な愛って何なの? 真実な愛、愛の中の愛、神様の愛について考えてみました。 

第一番目は終わりのないもの、永遠なものです。
ローマ8:39節を見ると、パウロは終わりのない神様の愛を記録しました。
なぜ、神様の愛は終わりがないのでしょうか? 神様は変わらない愛で、私たちを愛しておられるからです。
多くの人々は愛しながらも、別れます。
人の愛はある時もあるし、ない時もありますが、神様の愛は不変の愛、この終わらない愛が真実な愛だと思います。

二番目は共にいることです。
神様は私たちと共にいたかったので、旧約の時代にはモーセに天幕をつくらせ、新約には神様ご自分自身が肉体の体を着て、来られました。
肉体の体を着て、来られた神様、すなわちイエス様は私たちと共に生活をしながら愛を見せて下さいました。
なぜ、神様は最も低い者として、来られたのでしょうか? ただ人の世を、見学にこられたのでしょうか?
いいえ。私たちを愛されましたから、私たちと共にいたいと思われたからです。
家族と一緒にいたい、恋人と一緒にいたいと願うのは、家族の中に愛があるから、恋人との愛があるからでしょう。
愛があるから共にいたいのです。

三番目に、愛を告白します。
神様は聖書というラブ・レターで私たちに愛を告白されました。
ラブレターがとっても厚いので驚きますが、読めば読むほど驚かされます。
こんなにぶ厚いラブレターは、ほかには、ないと思います。
なぜ、こんなにたくさん、語られたでしょうか? それは、私たちを愛されたからです。
愛があるから語られたのです。

神様の真実な愛は、1.限りがない、2.共にいたい、3.告白する事です。

この神様の真実な愛をどのように告白しましょうか?
変わらない愛で、私を愛して下さる神様に感謝の告白を捧げる事です。
神様の愛に感謝して主に祈り、賛美し、礼拝を捧げる事です。
あまりにも感謝して、人生を主に捧げるのです。
二番目に私たちに注いで下さった聖霊様といつも共にいる事です。
私たちを愛して助けて下さる聖霊様に、きく。聖霊様の御声に耳を傾けることです。
聖霊様の導きに従う人生、主と共にいる人生、いつも聖霊とデイトをしましょう。
三番目は唇で告白する事です。
愛して下さる神様に“神様愛します。”神様に告白してこの告白をたくさんの人々に伝える事です。
神様は私を愛しておられます。私も神様が大好きです。愛します。この愛で私はとっても幸せです。
神様の真実な愛を受けていれば、独りでにこのような告白が出てくると思います。
こんな告白が出来ると私の人生が変えられ、この地にあっても、天国的人生を過ごす事が出来ると思います。
今晩祈りを捧げる時、神様の真実な愛をもっと受けて感謝の祈りを、聖霊と共に祈り、愛の祈りを捧げる皆さんになられるように心から願い、主イエスの御名によって祝福します。アーメン

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Kさんの分かち合い

私は、今週の御言葉を黙想しながら、神様の愛と慰めをもっと深く受け入れることになりました。

木曜日のデボーション箇所、イザヤ書41章14~20節から悟ったことを、分かち合いたいと思います。

私は、いったい、神様を喜んでいるのか? そして、誇(ほこ)っているのか?
自分自身についておもいめぐらしてみました。私は自分の考えで心配して恐れました。御言葉では、私を助ける神様が、私を、新しいもろ刃の打穀機(だこくき)とすると書いてありました。
神様は、時間をかけて、すこしづつ新しいもろ刃の打穀機のようになりなさいとおっしゃらずに、もうあなたは神様の新しいもろ刃の打穀機だよと、おっしゃっています。

そして、神様は、私を、行動によって判断しないで、私のありのままの存在を認めて下さっているので、心から感謝します。これからは、私が失敗したときにも、うまくできなかったときにも、勇気と希望と信仰を失わないで、キリスト人としてのアイデンテイテイをわすれないようにします。


17~19節の御言葉のように、神様は何もない場所を新しく変えることのできる方です。私の神様は本当に偉大な方ですが、私は考えと思いにおいて、神様に罪を犯した時もたびたび、ありました。
小さなことをしても、どこにいても神様の喜びの人、信仰の人になりたいです。
そして日々、神様に新しく創造されたいです。
私たちの人生の中では、荒野(あらの)や砂漠(さばく)の地のような問題がありますが、神様と一つの心で祈りたいと思います。

こんばんも、教会のために、牧師先生のために、子供伝道、キャンパス伝道のために、来週のセミナーのために祈ります。


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Nさんの証し

私は数週間前(すうしゅうかんまえ)に寝ながら珍しい経験をしました。
私には寝癖があります。 横向きか、うつぶせて寝ることです。
理由は、後頭部が丸く出ているので、上向きに寝るのは不便だからです。
ですから無意識に、横向きかうつぶせで寝ているのです。
その日も、やはり、うつぶせで寝ていましたが、左の腕が胸で押さえつけられたまま、寝ていました。
左の腕が胸で圧迫されて、血液が流れなかったので、自分でも何かおかしいなと思って目が覚(さ)めました。

起きて見たのは、驚くべきことでした。
血液の流れが悪かったので、左の腕には、力が入りませんでした。
だから、こんなに垂れていました。
手首に力を入れて立てようとしても力が入りませんでした。
瞬間的に思ったのは、 あ~もう左の腕はダメなんじゃないか、大好きなスポーツもできないんじゃないか、まだガールフレンドと手をつないで歩いたこともないのに、、、。恐れを感じました。
恐れを感じている間に、左の腕には心臓から血液が流れ、腕がしびれるような感じがして、手首から力が入り、自然に動かすことができるようになりました。
流れなかった血が流れ始めたとき、しびれて痛みを感じながらも、またスポーツができる、彼女の手をつなぐ事もできると考えて、嬉しかったです。彼女ができたらきっと左の手で手をつなぎたいです。
単純な私なので、また左腕を動かすことができると、大変喜びました。この喜びを持って寝ようとしましたが、血が流れなかった時の腕が気になって少し考えました。
確かに私の体、私の腕でしたが、ただ血が流れなかっただけで動かす事が出来なかったことを考ると、左の腕は私の腕じゃないような気がずっとして、すぐ寝つけませんでした。

私の腕だけど私の腕じゃない感覚! 考えれば考えるほど恐いと感じました。皆さんはこんな感覚をもったことがありますか? 生きているけど死んでいる感じ!ただ血が流れなかっただけですが。
もちろん血が大切であり、命だと知っていましたが、血がどれほど大切なのか、血が命だと事をはっきり知ることができた夜でした。
血が流れないことは死ぬ事だと思い、イエス様の血潮は永遠の命だという御言葉を思い出しました。
血が私の体を生かすようにイエス様の血潮は私の霊を生かすのだと思いました。
私の霊に今、イエス様の血潮が流れているのか? その血潮で、今、私の霊は生きているのか?
腕に血が流れなかった時と同じように、私の霊にイエス様の血潮が流れてないなら、霊は力がないし、生きていないだろうと思いました。
う事でしょうか?
神様は霊的な方なので、霊的な礼拝をお受けになるし、霊で語られるし、聖霊によって導いて下さいますが、私の霊が死にかけていたら、神様との関係が断絶し、愛する父よと呼ぶ事もできないし、聖霊様の導きも受けることができないのではないか? 大変だ! 私の霊を生かさなければならない、私の霊にイエス様の血潮が流れるようにしなければならないと思いました。 
私の霊を生かすものは、血潮! イエス・キリストの血潮だと祈りながら眠りました。
朝、起きて、夜のできごとを考え、イエス様の血潮が流れてないなら死んだ者! それでは、イエス様の血潮を流すためにはどうしたら良いのか、主に祈りました。
主は私に二つの質問をされました。なぜ、腕に血が流れなかったのか? 血はどこからながれているのか?
腕に血が流れなかったのは胸で腕を押えていたからです。血が流れる通路を、ふさいだのです。
霊的な通路をふさぐ障害物は、皆さんがよく知っている罪ですね。
罪があれば霊的な通路はふさがれて、血が流れなくて、結局、力がないし、生きているけれど、生命力のない霊になってしまうでしょう。
罪の告白を瞬間瞬間して霊的な通路をふさぐ罪の障害物を除去して命の血潮が流れるようにしましょう。血潮を流して神様の霊を受けて回復しましょう。
血はどこから流れているのか? 心臓から流れています。いくらきよい血が流れていても、心臓が弱いならば、流れは弱いでしょう。
尊く、尊いイエス様の血汐、傷もなく穢れもない、尊い血だと語られています。
いくらきよいイエス様の血潮があっても心臓が弱いなら100%血潮の能力を見る事はできません。
きよいイエスの血潮の能力を見るためには強い心臓が必要です。

強い心臓とは何でしょうか? 私は強い信仰だと思います。
イエスの血潮だけが私の霊を生かして聖霊の導きを受けるようにする。私はこの血潮の能力を信じる。
血潮の能力を信じる強い心臓で血を流すとき血潮の100%の能力を見ることができます。
血が流れるとき生き返ります。血が流れるとき力を得ます。
信仰を持ってきよいイエスの血潮を流すとき私の霊が生き返り、力を得るし、能力が現れます。奇跡が起こります。
今晩私達は神様の御前に出て行くために、神様の御言葉を聞くために、神様の御心を知るために、集まりました。どうしなければならないでしょうか?
罪を告白すること。
今、きよいイエスの血潮が流れている事を信じる信仰
大切なことは、この二つだと思います。

神様の霊で回復する事を心から願います。

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黙想エッセイから~Hさんのショートメッセージ

ナイアガラの滝を見るには二つの方法があります。
一つは、ホテルの窓から、ながめる方法
もう一つは、川から滝に向かって近づく船、「霧の中のしゅくじょ」という名前の船に乗って、びしょびしょにぬれながら見る方法です。

私はもしそこに自分がいたら、どちらの方法を選択するだろうかと、考えてみました。
最初の瞬間、想像したのは、何か遊園地の乗り物に乗るような感じで楽しそうだから「霧の中の淑女」を選択することでした。でも自分の性格を考えると、選択しないだろうなあと、思いました。

遠くからでも見ることができるのに、わざわざ行ってみるのは面倒ですし、びしょびしょに濡れるも、ちょっといやだし、ホテルの窓から、びしょびしょに濡れて帰って来る人たちを見て十分満足して楽しめるんじゃないか~と考えました。
黙想エッセイの終わりのところにイエス様がナイアガラの滝のようにイメージされ、船に乗船した二人の男女がイエス様の中に入るイラストがのっています。そのイラストを見てもう一度想像(そうぞう)して見ました。
迷うこともなく船に乗船してその中に入って見ているすがたでした。

でも想像の世界ではない現実で イエス様を見る二つの方法の中で 自分は何を選択して見ているのかを考えたら近くもなく、遠くもない適当な距離で見ているのではないかと思いました。中途半端な姿です。主の前に進み出て近くで見た日もありますが、忙しいから、疲れたから、今はめんどうくさいから、、などの理由で遠くから見た日が多くあります. 平均的に見ると自分は適当な距離を維持してその距離で見ているんだなと気づきました.

そして水曜日のアルファコースで門が開くまで、門の外で立って待ってるイエス・キリストのイラストを見て考えました。主は私たちの心が乾いたら満たしてあげたいし、傷ついたら癒してあげたい、そして沢山の秘密を、私たちに、見せたり、話したいと願っておられる。
主は、私たちにすごく近づきたいけど私たちの人格を尊重して私たちが近づいて来るまでずっと門の外で立ち続けて、待ってるんだなと思いました。私たちは主が作った被造物だから本当は、勝手に入って主がしたいまましてもいい、そんな権威を持ってる方だけどそんなふにはしない。本当に主は愛を持って私たちを待ってるんだと、主の大きな愛を感じることができました.

今も門の外で私がドアを開けるまで、寂しく立って待っておられる主を考えると早くドアを開けて近づきたいと、すご-く、思うし、適当な距離で見て、少し濡れるだけで、満足するその距離から離れ、その中に完全に入り込んで、主の愛でびしょびしょに濡れたいなと考えます。
ですから、こんばんこの時間が 主の御座の前に進み出て、主の愛でたっぷり満たされる時間になったらいいなと思います。
皆さんにもこんばんこの時間がそんな時間になりますように願います。

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オンギジャンイ熊本ツアーのスケジュールです!

「09.xls」をダウンロード

3年ぶりのオンギジャンイ熊本ツアー
とっても、楽しみです。

素敵な賛美が、オンギジャンイを通して歌われるとき、神の愛、慰め、癒し、回復、、、いろんなことが起こります。
そのメロディー、その歌詞、歌い手が一つとされ、神を賛美するとき、誰もが神の無条件の愛を体験します。
この愛する熊本でこの秋、素敵なことが起こります。

新曲も加わりました。
どうぞ、楽しみにお待ちください。


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苦難の時にも~ユース・セミナー6

聖書 : 2コリント12章7-10節、箴言3章5-6節、ローマ4章18-22節

* 時に、信仰が根底から揺さぶられることがある
* 神様には、ご自分のなさることを、人間に説明する責任はない。神様の道は、人間の理解をはるかに超える
* 人生の荒波に直面して、信仰の破船にあわないように、苦難に備える。


神様のなさることがわからなくなった時、心に留めるべき三つのこととは、何でしょうか?

1.神の臨在が感じられない時にも、神はいる、近くに。
2.神の時はパーフェクト。
3.神の愛は、完全。

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スティーブンス・栄子師 イスラエル・セミナー

6月30日(火) 午後2時~
          午後7時半~
            


Stevens_eiko


スティーブンス・栄子師略歴
1942年神戸生まれ、1966年、ビル・スティーブン氏と結婚、渡米。1990年、牧師按手を受け、夫婦でイスラエルへ移住。BFPと出会う。1993年、イスラエル政府公認ガイドとなる、BFP日本支部局長、理事長歴任。現在はアメリカにて聖書神学者として活躍中


{セミナー内容}
 ①イスラエルの預言と成就
 ②再臨の7つの鍵


会場:熊本ベテル教会、自由献金
    熊本市下硯川町1442-3 ☎096-323-8160

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主の下に座りたいと切に望む   雅歌2:1-7節   

主は我が盾、わが救い、わが避けどころ。主との個人的愛の回復が御言葉の内にあるように! 再臨を待望する私たちに、どう備え、どう待ち望んだらいいのか、秘密の扉を開いてほしい。

ともしびをもって花婿を出迎える10人の娘がいましたね(マタイ25章)。5人は賢く、5人は愚かでした。愚かな娘はランプは持っていたが、油の用意がなく、花婿が来たとき油のストックがなくて婚礼の祝宴は扉が閉まりました。「だから目を覚ましていなさい。あなた方は、その日、その時を知らないからだ。」賢い娘の切実さがありますか?

この時代は、不法がはびこり、愛が冷たくなって、利己主義で辛い時代です。どうやって、神をまず第1に愛し、隣人を自分を愛するように愛することができるでしょうか?今日の本文に勝利の秘訣が書いてあります。

1節:主はシャロンの花、谷間のユリ。神でありながら、人として生まれて下さった主。高い神の御座から、最も低い十字架の死に至るまで、賎しめられた方。花嫁の告白になった。環境は谷間、しかし、アイデンティテイはサフラン、ユリ。主を受け入れた者の身分(1ペテロ2:9)

2節:主は、私を茨の中のユリと呼ぶ。主の愛は環境や条件によらない。ただ、私たちの存在を受け入れ、愛して下さる。

3節:木はしばしば人を表わす。主はリンゴの木のよう。箴言25:11、リンゴの木から採れる金のリンゴは御言葉。耳のある者は聞きなさい。花嫁は、木陰に座ることを切に求めている。木陰とは、覆い、守り、隠れ場という意味。悪魔は繁栄や快楽を餌に絶えず誘惑している。木陰から離れるならば、もはや、御言葉は甘くなくなる。御言葉が甘いと感じるとき、私たちの内には、環境によらない、主による救いの喜び、主との愛の関係による喜びが充ち溢れる。

4節:その時、主は酒宴の席に花嫁を伴って、御言葉の食卓によって、彼女の魂を満たし、喜ばせ、満足させる。花嫁に愛があるとき、勝利がある。

5節:花嫁はぶどう菓子とリンゴの実をもとめている。イエス様ご自身と、御言葉を求めています。私たちは、どれほど人からの慰めを求めたでしょうか? どれほど、願ったでしょうか? 人が自分を慰めてくれないと、どれほど怒ったでしょうか?サマリヤの女は夫から得ようと何回結婚したでしょうか?  アブラハムはイサクから、そしてヨブは家族から、友から、、。十字架の主から慰めを受けない限り、私たちは決して慰められないのです。慰めを求めて他の人に手を伸ばしても、空手のままで帰ってきます。あるいは、それは限りがあり、永遠のものはなく、別れの日が来る。人は皆、裏切ったり、変化していきます。間違った木の下に座っているのです。主以外の木の下に座って、慰めのリンゴを摘むことはできません。神は、私たちが弱っているとき、病気の時、私たちの願いや悲しみ、寂しさ、欲求不満を満たして下さいます。神が私たちを八方ふさがりにされることがあります。それは、ただ主だけ、ただ神だけを見上げてほしいと切に願われる時です。病人が、老人が、ときどきものすごい孤独に襲われます。役に立たないのに生きていていいのか! 人の基本的欲求を損なわれるとき、5節を告白しましょう。

6節:求愛の姿勢。主の左腕に頭をもたれかけて、思いを変えられ新しくされます。主の右手が私を抱いて下さいます。休息と力の描写です。花嫁は自分で自分の人生を治めようとせず、主にゆだねています。

7節:カモシカや雌鹿は、とても用心深く、憶病で、彼らが見張りをする時の敏感さは、花婿の姿だという。花婿は鋭い認識力を働かせて、花嫁の心が整えられるのを見張っています。花嫁の心は、いつも魅力的な世の喜びによって、誘惑に会うのですが、それらは神の愛から、花嫁を遠ざけるものなのです。子供、友人、親族は私たちにとって大事な存在ですが、主はそれらを一度十字架につけ、主との深い愛を目覚めさせることのできる瞬間を見張って待っておられます。
主だけが、愛を目覚めさせるお方であるとすれば、私たちは祈って、御言葉を語り、生活のただなかで、主との関係、主が下さった証しを語っていくだけだと思います。

あなたはどの木の下に座っていますか?
あなたは主の香りをかぎ、御言葉の甘さを味わっていますか?
あなたの愛がかきたてれ、愛が目覚めるように祈りましょう。王の愛を受け、見守られ、あなたは世に勝利していきます。

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最も美しい人、わが愛する者よ!  雅歌1:7-17  

7節;自分の心を見張らなかった女性、飢え渇いて、魂の癒しと養いを切に望んでいます。
「私は門です。誰でも私を通って入るなら救われる。また安らかに出入りし、牧草を見つける」(ヨハネ10:9)
真昼の灼熱の中で休みたい。休む…かがむ、膝を折る、もたれかかる、上から覆う、、、、主から安息を得たい。

8節;花婿の賞賛の呼びかけ、最も美しい人とは、主のものだから。私の父は、母のことを世界1美しいと言っていた。親は子供のことが一番に可愛い。なぜか? 
教会に留まり、牧師の権威と影響力の下に留まること。誘惑や試みにおいないように。花嫁の成長と成熟を見守る花婿の姿。

9節;ヨブ39:19-25、信仰の馬の描写。クリスチャンの心の中にこの力強い信仰の馬が形造られたら、、、。羊飼いが導き、彼女がついていく時、彼女は学び成長します。

10節;頬、もし主が言われたように、右の頬を打たれ、左のほうを向けるなら、飾り輪がつく。首とは、考え、意志、理性を現す。今の花嫁は、花婿の心と一致していて、首飾りで飾られている。苦しみの中でも、栄光の中でも、すべての環境と状況の中で、花婿に意志をゆだねることを学んだので、首飾りで飾られた。

11節;王なる主、羊飼いなる主が、花嫁の耳に銀をちりばめた金の飾り輪を作って下さる。主の所有となったので、主によって、最も美しい人よ、わが愛する者よ、と呼ばれ、「選ばれた種族、王である祭司、神の所有とされた民。闇の中からご自分の驚くべき光の中に招いて下さった方の素晴らしいみわざを、あなた方がのべ伝える為、、、」(1ペテロ2:9)

12節;王の食卓で、花嫁はナルドの香りを放っている。ベタニヤのマリヤが高価な香油を主のために捧げました。礼拝と愛を主の足もとにひれ伏し仕える為につぼを割りました。最も卑しい足もとにひれ伏すことは簡単なことではありません。主が血潮で聖め、聖霊の火で焼き、明け渡された心に平安を注がれるのには、主が引き寄せて下さらなくてはできず、主は時間をかけて、一人ひとりをふさわしく取り扱ってくださいます。
食卓に主はついて下さっていますか? 主の食べ物は御霊の実です。愛、喜び、平安、忍耐、柔和、善意、信仰、誠実、自制の食卓で低く仕えるとき、ナルドの香りが放たれ、主は喜ばれます。

13節;へりくだることは普通の人にはできません。花嫁は、乳房の間に高価な癒しの香り、没薬の袋を主だと告白しました。マリヤの受けた批難、誹謗、、。ナルドの香りを放つ者に必ず来る葛藤。それらを耐え忍び成長できるのは、胸の心の真ん中に主を持つ者だけです。

14節;エン・ゲデイはイスラエル一豊かなブドウ畑、ユダ族(賛美)の中にありました。ヘンナ樹は化粧やシミを隠すため、香水として用いられた。喜びのシンボル。「主を喜ぶことがあなたの力」(ネヘミヤ8:10)賛美のぶどう畑の中でヘンア樹、主なる花婿の喜びは成長していく。「神はその民の賛美の中に住まわれる」(詩22:3)

15節;ああ、わが愛する者、あなたは私に高価でたっとい、そんな主からの告白。鳩の目は優しさ、憐れみ深さ、柔和さのシンボルです。これも主のご性質であることを覚える。

16節;主は美しく、慕わしい。主と共に歩む、奥のまで主と個人的に交わり、義の太陽に焼かれ色を変えられ、十字架を通り、頬と首、耳を取り扱われるとき、主との歩みが愛の関係に入る。長椅子は休む場所。「主は私をみどりの牧場に伏させる」(詩23) 休息とは回復。喜びの場で休み、回復し、新しくされる。

17節;霊的家の描写です。梁は家の内部構造、屋根や壁の支え。きよめを表わす杉の木。民数記19章で学んだイスラエルの清めの水は、血、火、杉、ピソプから作った灰、水を混ぜ合わせて作った。イエスの血、聖霊の火、命の水が霊的構造。屋根をのせる為の木、廊下材なのか? よくわかりませんが、謙り、明け渡しの意味だと書いてあった。私たちがとどまるべき場所です。


羊飼いなる主は、私たちを養い休ませる。自分を養う場所はどこなのか?
主は私たちの内に信仰の馬を形造るように願われ、頬、首、耳、目を作りかえる、王妃のように日々ふさわしく
主との愛の関係
あなたが日々とどまるべき家、きよさと謙りの家

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